昨年の7月に海のプチ歴史ロマンとして、江戸時代末期に日本との通商を求めて来航したロシアのプチャーチンと彼が乗艦していた<ディアナ号>の沈没について話をしていただきました。2月に満澤氏は伊豆半島の関連する場所を訪ねたので、今回はそのお話し。
<ディアナ号>は、1854年にロシア皇帝の命を受けたプチャーチン提督を乗せて通商を求めて来航し、幕府の指定した交渉場所の伊豆半島の下田港で停泊中に安政の東海地震、いわゆる南海トラフ巨大地震の津波で船底を損傷し、その修理に向かう途中で嵐に合い駿河湾の田子浦、今の富士市の沖合で沈没。JAMSTEC以外にも調査は行われていますが、<ディアナ号>の発見にはいたっていません。ただ、沿岸近くで錨がみつかり引き揚げられているそう。
ロシアのプチャーチン、最初は南海地震の起きる前年1853年8月に当時唯一外国船の入港を認めていた長崎に来航。アメリカ合衆国のペリーが神奈川の浦賀に来航の約1ヶ月後。ペリーは東京湾の奥まで入るなど威嚇的、強硬的だったのですが、プチャーチンは長崎で1ヶ月以上幕府の役人を待つなど、友好的、紳士的に交渉を進めようとしていたよう。「プチャーチンは交渉に威圧的なペリーとは対照的だったように思います。」1853年は日本側の要望もあり交渉の打診のみでおわり、1854年10月に再度来訪、日米和親条約によりアメリカに開港した函館に入り、幕府宛に大阪での交渉を求める親書を渡し大阪湾に行きますが、幕府より再度、伊豆の下田港を交渉の場所として指定されたため、12月4日に伊豆の下田に入ります。ただ、下田に入ったことが<ディアナ号>にとっては悲劇となってしまうのです。
最初の日露交渉は1854年12月22日、下田の福泉寺というお寺で行われ、23日の午前10時前に安政東海地震が発生。下田に津波が来襲し町は壊滅的な被害を受けます。この安政東海地震は今でいうと南海トラフ巨大地震の半割れの地震で、32時間後に安政の南海地震が四国沖で発生。この津波で前日交渉を行った福泉寺も本堂の床上まで浸水し人家が流れ込むなどの被害を受けたそうです。このような状況下、日露交渉は地震の3日後に場所を下田の長楽寺に変えて再開、<ディアナ号>の修理についても交渉が行われました。損傷した<ディアナ号>は浸水しながらもなんとか移動できる状態だったので、戸田村という場所に移動し修理することに。ところが、この移動航海中に嵐に合い1月16日に沈没。乗員は嵐の中ボートで下船し、地元の村人の救助活動もあり全員無事だったそうです。プチャーチンは幕府の役人と交渉し、帰国するための小型の洋式船を建造することに・・・。日本で最初の洋式船が戸田村で建造されることになったのです。<へだ号>と呼ばれていますが、これはロシア人の指導のもと日本の船大工により建造が進められ100日ほどで完成し、5月8日にプチャーチンら約50人を乗せて戸田を出港。プチャーチンが戸田に滞在している間に条約の交渉が重ねられ、2月7日に下田の長楽寺で日露和親条約(日露通好条約)の調印が行われました。
「今回、下田では遊覧船に乗って港内をみたのですが、下田港は南側に開いている入江で、町の中心は北西側の川沿いの平地に開けています。そこ以外は海岸近くまで山が迫っていて、現在のハザードマップでも湾の東側で津波の波高が高く、最大で10mを超える津波が予測されています。湾内の東側の少し高い場所にある玉泉寺は、津波の時に大砲の下敷きになって亡くなった水兵のお墓があり、またアメリカの領事館が最初に置かれた場所。本堂は海岸近くの7~8mの高台にあるのですが、本堂の床上まで浸水したそう。玉泉寺には<へだ号>の建造中に戸田で亡くなったロシア人2人のお墓もあり、きれいに整備されていました。また、地震後に交渉が行われ、日露和親条約の調印が行われた長楽寺は湾奥の西側、こちらは本堂に通じる階段の下から4段目までが浸水したそう。長楽寺のご住職にお寺の由来や日露交渉の様子などを教えていただきました。この条約で、日露の国境が定められたことで、調印の行われた2月7日が北方領土の日として設定されたのです。」
戸田では、<へだ号>の建造やプチャーチンの資料、<ディアナ号>や<へだ号>の模型がある造船郷土資料館があるそう。入り口には、海底から引き上げられた<ディアナ号>の錨が展示されていたとおっしゃっていました。当時、日露交渉では、地震による<ディアナ号>の損傷、沈没やその時救助に協力した人々、<へだ号>の建造や、幕府が規制した中でも地元の人々との交流など様々な出来事の中で、日露和親条約が結ばれ、この時の外交交渉は、双方紳士的かつ友好的に進んだということを実感したとも・・・。「人と人の信頼関係や協力に基づく外交交渉が現代にも同じように起きることを祈るばかりです。」
※尚、写真は JAMSTEC 満澤巨彦氏からお借りしました。
・写真(上左):下田港、正面の左奥が町の中心、正面の右側(東)にかけて津波の波高が高いエリア(2025/2/15撮影)
・写真(上右):下田の玉泉寺山門、露艦ヂアナ号水兵の墓所の石碑(2025/2/15撮影)
・写真(中左):下田の長楽寺に通じる石段、下から4段目まで津波が来たそう(2025/2/15撮影)
・写真(中右):長楽寺本堂、本堂で日露和親条約の調印が行われた(2025/2/15撮影)
・写真(下左):戸田造船郷土資料館にある<ディアナ号>の錨(2025/2/16撮影)
・写真(下右):戸田の宝泉寺にあるロシア人乗組員2人のお墓(同じ乗組員2人のお墓は玉泉寺にもある)